本エリアの地層は、北東-南西走向となっており、その地勢は地質の特性を受け、断層、向斜、背斜などの構造が見られます。このことから、このエリアが激しい地殻変動の影響を受けてきたことを示しています。本エリアではデイサイトが見られるほか、地層中には金、銅を豊富に含んでいます。そして、鉱脈が広がっているほか、鉱物の多様性と鉱化作用により、特殊な地質景観が広がり、天然の地質学教室となっています。
金瓜石の鉱体は、主に中新世に堆積岩に胚胎し、一部分は火成岩体となっています。堆積岩層は2500万年前から1000万年前に、海底で堆積して形成されました。およそ1000万年前から800万年前に、フィリピン海プレートとユーラシアプレートが衝突し、押し上げられたことにより、さまざまなレベルの地殻運動が次々に発生しました。200万年前、褶曲(しゅうきょく)、断層などの地形が形成され、陸地がゆっくり隆起していきました。
約170万年前から90万年前の更新世の時代、このエリアではマグマ活動が発生し、いくつかの火成岩が岩体に貫入したほか、噴出岩が形成されました。現在の基隆山、牡丹山、金瓜石(本山)などは火成岩が岩体に貫入した貫入岩、草山、鶏母嶺などは噴出岩です。その後、このエリアでは頻繁な断層活動が発生し、マグマ活動の後期の「熱水変質作用」とは、地下の高温の熱水が、断層や小さな割れ目を上昇する過程で、金鉱体を形成する作用のことです。
金瓜石鉱山を中心とするエリアは、標高100メートルから500メートル前後の丘陵地に位置し、最も高い基隆山は587メートルです。 金瓜石の集落の四方を茶壺山、草山、半平山が囲み、いずれも地形の特色となっています。金瓜石の集落は標高200メートルから325メートルと、その標高は決して高くありませんが、丘陵地に位置すること、また切り立った渓谷になっていることから、傾斜は急で険しくなっています。
金瓜石の集落を中心としたエリアの動物の分布は、その地形と植生によって異なりますが、中でも鳥類が最も特色があるとされています。野鳥学会の調査によると、本エリアではこれまで下記の鳥類が確認されています。
(1)猛禽類:トビ、カンムリワシ、カンムリオオタカ、ミナミツミ、チョウゲンボウ、ハヤブサ、ハチクマ 、カザノワシ、アカハラダカ。
(2)野鳥(山野の鳥):ヤマムスメ、タイワンオナガ、タイワンゴシキドリ、メジロ、タイワンヒメマルハシ、ホオアカマルハシ、シマキンパラ、チメドリなど。
(3)野鳥(水辺の鳥):コサギ、アマサギ、ゴイサギ、カワセミ、キセキレイ、ハクセキレイなど。
(4)その他:シロガシラ、ニシヒメアマツバメ、リュウキュウツバメ、シロハラ、オウチュウなど。
中でも、このエリアはトビの主要な生息地、繁殖地とされています。
また、このエリアに多い爬虫類としては、アオスジトカゲ、タイワンハブ、シナミズヘビ、タイワンアオハブ、ソウカダ、カサントウ、アマガサヘビなどが挙げられます。渓流魚は、オイカワ、ハタ、キンギョ、タイワンクゥーフィッシュ、ドジョウ、オオウナギなどが、両生類は、アシナガアカガエル、アカガエルの梭徳氏赤蛙(Rana sauteri)、タイワンハラブチガエル、バンコロヒキガエルなどが、そして昆虫類は、ハナムグリ、スズメガ、アゲハチョウ、ヨナグニサン、コシロモンドクガなどが生息しています。
このエリアの植物は、北東の季節風と鉱山ならではの土壌の影響を受けています。水ナン洞と金瓜石の風上側では、強い季節風に加え、銅の製錬による土壌汚染により、カナヤマシダやコシダが中心となっています。さらに、金瓜石の日当たりのいい山の斜面では、火災が発生しやすく、トキワススキが植生していることも一つの特徴です。このエリアは季節風の影響により低木帯と草原群落となっており、ゲットウ、トキワススキ、ササキビ、コセンダングサ、コシダなどが植生しています。また、原生林としては、マツ、タブノキ、ヒサカキ、ニオイタブ、アブラギリ、オオバギ、アカメガシワ、ヒカゲヘゴ、タイワンハンノキ、タイワンアオカエデ、ボチョウジなどが茂っています。山の周囲の岩壁や山崩れが起きた場所に生育しているブレッシュネイデラ・シネンシスの群落は、このエリアにとって非常に貴重な生態系と言えます。(ナン=さんずいに南)
金鉱遺跡:
(一)露天採掘坑:本山、樹梅の露天の採掘坑。
(二)坑道:地下の採鉱場は本山四坑、五坑、六坑、七坑、八坑の5つの区域に分かれており、各採鉱場は立て坑でつながっていました。現在、本山五坑のみが完全な形で残り、新北市政府によって「黄金博物館」の施設の一部となりました。その他の坑口はいずれも著しく崩壊しています。
(三)長仁インクライン、無極索道、斜坡索道:金瓜石と水ナン洞の各鉱坑を結んでいた輸送手段で、当時の金瓜石における動脈と言える存在でした。
(四)水ナン洞金製錬所(十三層遺跡)、礼楽銅製錬所:日本統治時代の選鉱、洗鉱の関連施設はすべて、解体されていますが、廃墟となった金製錬所と日本統治時代の銅製錬所の排煙用のパイプはなお残っています。
かつての街並みや建築物:
(一)太子賓館:1922年、日本鉱業株式会社は、皇太子(のちの昭和天皇)の台湾行啓のための招待所として、建てられました。
(二)日本建築の宿舎群:当地で金採掘が行われていた日本統治時代の高級幹部用宿舎です。職員宿舎、太子賓館、黄金神社の位置からは、はっきりとした身分社会が存在していたことが伺えます。
(三)商店街跡:採掘が盛んだった時代には、商売も行われにぎわいを見せていました。商店街跡は地形に合わせ階段が多い特色があります。
神社仏閣:
(一)黄金神社:1933年、日本鉱業株式会社が、金瓜石の経営権を買収したのちに創建されました。日本の金屋子神社から、「鍛冶の神」を分祀しています。戦後、維持する人がいなくなった神社は取り壊され、現在は鳥居、石灯籠が残るのみとなっています。
(二)勧済堂:関羽を祀る廟として他の場所に建立されましたが、日本統治時代、すぐ脇に銅製錬所が建設されたことで建物に亀裂が入り、1931年、現在の場所に移転しました。金瓜石の信仰の中心となっています。
金瓜石鉱山の比較対象となるスペインのラス・メドゥラスは1997年に世界文化遺産に登録されました。ラス・メドゥラスは紀元1世紀、当時の支配者であったローマ帝国によってスペインの北西に開かれました。当時のローマ人は水圧を利用して、金の採掘を行いました。ローマ人は2世紀にわたって採掘を行ったのちに、この鉱山を捨て、無残な光景だけが残されました。この地ではその後、いかなる産業活動も行われていません。古代の産業技術によって金が採掘された鉱山遺跡、例えばその山腹の切り立った採掘現場や選鉱くずが残る広大な土地は、今は農地として利用されています。
金瓜石の集落発展の歴史は、清代、1890年の夏にさかのぼります。台湾巡撫の劉銘伝が七堵で鉄橋の工事を行った際に、作業員が基隆河で砂金を偶然発見したことをきっかけに、金瓜石におけるゴールドラッシュが起こりました。日本が台湾を占領後、金瓜石の採鉱は近代化され、インクラインによって本山鉱床の砂鉱が水ナン洞へ運搬されるようになり、金瓜石、水ナン洞では採鉱と選鉱を行うための集落が形成されました。1905年、日本人は豊富な硫砒銅鉱を発見し、水ナン洞に銅製錬所が建設され、長仁鉱床で採鉱した銅鉱の処理を行いました。
戦後、台湾が中華民国となった後も、金や銅の鉱業はなお盛んで、台湾の経済発展を大きく後押ししました。その後、1987年、台湾金属鉱業公司は廃業し、金瓜石の輝かしい歴史は幕を閉じました。現在、このエリアには、集落、鉱坑、インクライン、索道、製錬所など、鉱業に関する数多くの遺跡が残っています。こうした貴重な遺跡は、金瓜石が将来、再び繁栄を取り戻す上で重要な要素となります。