台湾でハンセン病はかつて「痲瘋」、「麻風」、「癩病」、「韓森病」などと呼ばれていました。台湾におけるハンセン病の看護記録として最も早いものは、清代、乾隆元年(1736年)までさかのぼります。彰化県令(県知事に相当)の秦士望が建立した養済院の傍らにある留養局の碑には、養済院ではハンセン病の患者と身体障害者を収容したと記されているほか、清の役人、周璽が記した彰化県志にもその旨が記されています。ただ、この記載のみからは、当時、養済院でハンセン病患者を収容したこと、或いは医療行為が行われたことを直接証明することはできません。その後、日本統治時代に入り、台湾では、外国籍の医師と宣教師の指導により、近代的な治療とケアが始められました。20世紀の初め、アジアでもハンセン病の問題が重視されるようになりました。当時、世界各国のハンセン病の主な治療法は「隔離収容」、つまりハンセン病患者を1カ所の辺鄙(へんぴ)な場所に隔離し、外部との接触を禁止することで原因となる細菌の飛散を防ぐというものでした。例えば、フィリピンのクリオン療養所は離島のクリオン島に設置され、世界最大のハンセン病療養所となっています。そのほか、米ハワイのカラウパパ国家歴史公園、日本の国立療養所長島愛生園、韓国の国立小鹿島病院、マレーシアのスンガイブロー療養所など、ハンセン病療養所は現在も世界各地に存在しています。
台湾で、ハンセン病療養所設置を最初に呼びかけたのは、1901年、日本の学者、青木大勇でした。その結果、日本政府は1907年に通過した「癩予防法」に「隔離」という言葉が登場しました。第11代台湾総督、上山満之進は1927年、George Gushue-Taylor医師のアドバイスをもとに、当時の台北、新竹州境の「坡角」(現・迴龍)地域に、33万円を投じ、「台湾総督府癩病療養楽生院」を建設し、1930年に竣工しました。当時人々は「楽生院」と呼んでいました。楽生療養院の前身であるこの楽生院は、台湾初そして唯一の、公立のハンセン病予防・治療施設でした。
楽生院は、当時、世界のハンセン病療養所で行われていた制度をもとにして管理がされました。当時、最も有効的な治療法とされていたのは、治療施設、収容所、コミュニティーの機能を兼ね備えた施設内に隔離するというものでした。また、患者たちが奇異の目にさらされることなく、生を楽しみ、愛おしみ、その生命を尊重することができるようにという願いから「楽生」と名付けられました。楽生院が1930年12月12日に開設された際、患者は男性4名、女性2名のみでしたが、その後、宣伝活動や「台湾総督府癩病療養所楽生院案内」冊子の発行を通じ、台湾の人々へ、楽生院とハンセン病治療についての啓蒙を行いました。さらに各地の病院に通報を義務付けたほか、警察は住所の調査をし、各地方自治体では患者を強制的に隔離、収容する体制を整えさせたことから、楽生院への入院患者は急増し、翌年4月には上限の100名に達しました。また「台湾癩予防協会」と民間団体の協力のもと、5カ年と10カ年計画に基づいて、楽生院の施設と収容人数が拡張された結果、入所者の上限は700名となりました。1944年、当時の台北州八里にあったハンセン病療養所、楽山園の患者を収容したことで、翌年の患者数は442名に達しました。
日本の敗戦後、中華民国が台湾を接収。楽生院は台湾省行政長官公署の所轄となり、「台湾省立楽生療養院」と名を改めました。まずは1945年に台湾人医師の頼尚和が代理院長に就任し、翌年、呉文龍医師が引き継ぎました。しかし、1953年に陳宗エイ院長が就任するまで混乱が続きました。当時の社会には、ハンセン病に対する恐怖心と差別が存在し、勤務を希望する人が少なかった上、国共内戦期間中という時代背景もあり、楽生院の情勢は不安定となり、治安は乱れました。さらに、中国大陸から渡ってきた軍患者を多く収容したことで、台湾のハンセン病患者との間で、エスニック・グループの対立が頻発しました。不十分な管理もあって、患者の脱走も発生し、1947年、患者数は240名まで減りました。ようやく1953年12月に陳宗エイ医師が院長に就任すると、事務の見直し、患者たちの自治を推し進め、生活と環境を改善するだけでなく、社会資源の活用を促し、各界のハンセン病へのイメージと理解の向上を図りました。また、「作業療法」を導入し、患者に対し労働と職業訓練を勧めるとともに、「作業療法室」を設け、調理、各種手工芸、牧畜、園芸などの作業を指導しました。こうした取り組みにより、収容人数は年々増加し、1963年には過去最高となる1074名に達しました。(エイ=栄の旧字体の下の木を金に)
この時代、国際的な流れに順応するため、従来の強制的な収容による隔離措置を改め、新薬による治療を開始したほか、1962年の「癩病予防治療法」改正、1965年の「痲瘋病予防治療10カ年計画」と、1976年の「台湾省癩病予防治療強化10カ年計画」実施に対応しました。楽生院では1952年、当時の中国農村復興聯合委員会(現・行政院農業委員会)が持ち込んだ、世界で新たに採用された特効薬、ジアフェニルスルホン(DDS)を試験的に使用し、ハンセン病の治療において大きな進歩をもたらし、根治の可能性も切り開きました。しかし、数量が少なく、服用の資格を抽選によって決めなければならなかったことから、乱用と買いだめを招きました。また、強烈な副作用は、突然症状を悪化させ、らい菌の数が急増し、短時間で全身に結節が生じ、患者の体調は極めて悪くなることもあったことから、服用を拒否する人々も少なくありませんでした。また、、早期完治を焦るあまり、或いは自暴自棄になり、大量服用して命を落とした患者もいました。
戦後間もない頃の楽生院は、さまざまな事柄が手付かずという状態でしたが、宗教活動については絶え間なく行われ、非常に活発でした。各宗教の集会所或いは教会の支援により、次々に建物が建てられました。1952年、キリスト教の教会が礼拝堂建設のために募金を始めたこと、仏教の慈恵会による仏堂建立計画などはその好例です。
生活サポートの面については、物資が不足していたため、初期は一部の患者は食事や衣料などの費用を自己負担していました。この時代はまだ日本統治時代の隔離措置が引き続き行われていました。患者の強制入院、鉄条網による患者の脱走防止のほか、患者居住エリアと事務エリアは消毒液を満たした溝で区分けがなされていました。新生児が誕生した際には、直ちに父母と隔離され成長するまで児童養護施設で育てられていました。また、日本統治時代の各種法規、「癩予防法」、「癩予防法施行細則」、「癩予防法の台湾における施行細則」などはすべて廃止されましたが、1949年にこれら旧規則を改正した「台湾省痲瘋病予防規則」、1951年に改正した「省立楽生療養院入院患者管理法」はともに、消毒や結紮(けっさつ)の強要など差別的な措置、緊急通報システムの規範があったほか、患者或いは感染の疑いがある人の就職を禁止していました。患者が強制収容となったことで、家族の日常生活に支障が出た場合には、地方自治体がこれらの人をサポートし、収容された患者の医療費と生活費は台湾省政府が負担しました。
楽生院では外来診察を採用していましたが、開放性(伝染性)患者については入院治療を行っていました。楽生療養院は全国唯一の公立のハンセン病療養所であり、また、台湾省衛生処から患者の検査、収容を行うよう求められていたことから、外来患者と収容患者の数は年々増加していきました。楽生院のインフラ設備と患者の生活環境は劣悪でありサポートが必要な状態でしたが、相次ぐ戦争による消耗と政府の財政難の中、楽生院は支援を海外に求めざるを得ませんでした。支援の中でも、特に教会と米国によるものは最も重要でした。ドイツ籍のSister Alma、米国籍のMiss Marjorie Bly、ノルウェー籍のBjarne Gislefoss氏とOlav Bjorgaas氏などは皆、教会を通じて支援を行いました。また、西ドイツ出身のScheel医師、カナダ籍のLillian R. Dickson牧師夫人、Rev. Bob. Harmond牧師、Nelson牧師夫人、Karl L. Rankin駐華米大使、米軍医Lyneo医師夫人などは、人の力と資金により楽生院の改修、設備拡充のサポートを行いました。中でもDickson牧師夫人は最初に楽生院へ物資援助を行い、患者たちから敬愛を受けていました。Dickson牧師夫人の支援は食品、衣料にとどまらず、子供の患者向けの収容所である「慈愛の家」や「安楽の家」、「聖望礼拝堂」(1952年)、「キリスト教箴言作業療法室」(1954年)、男児用宿舎「聖光児童舎」と女児用宿舎「King’s Daughter児童舎」、治癒した患者のための「希望の家」(1958年)、視覚障害者の宿舎「盲人舎」などの施設は、すべてDickson牧師夫人が設立を計画し、募金をもとにして建てられました。その後、1970年代に入ってからは日本からの支援が次第に増えました。世界保健機関(WHO)の犀川一夫博士は、元々愛生園の外科医師でしたが、1957年に台湾へ派遣された後、度々楽生院で勤務しました。台湾南部でもハンセン病患者の治療を行いました。この時期、大阪歯科大学によるハンセン病患者へのボランティア診療もありました。また、笹川良一氏は1968年、電気治療器などの設備の寄付を皮切りに、衛生機関の幹部と医師を各地へ派遣し、ハンセン病の治療を視察、実習させる活動を資金援助しました。1977年にはスタッフを育成する講堂の建設資金として10万ドルを寄付しました。この講堂はのちに「笹川記念館」と名付けられました。
1956年、楽生院は巡回診療チームを組織し、台湾各地でハンセン病患者の巡回診療を開始しました。1959年には台湾省衛生処の協力により「台湾省癩病予防治療委員会」を設立、1962年の「癩病予防治療法」改正、1965年の「痲瘋病予防治療10カ年計画」と1976年の「台湾省癩病予防治療強化10カ年計画」を進めました。また、社会のハンセン病への見方を変えようとする、一連の政策も行われるようになります。1954年には脱走防止用の鉄条網、区分け用の消毒液の入った溝は撤去され、同年11月には、治癒した患者が初めて退院しました。1955年には社会人を対象に、施設参観が許されるようになり、完治した患者と伝染性でない患者の外出、里帰り、社会復帰が奨励されたほか、患者が結婚した場合に強要されていた結紮(けっさつ)など差別的な措置が廃止されました。1956年5月20日に台北県(現・新北市)で行われた地方選挙では、ハンセン病患者が初めて神聖なる一票を投じました。社会復帰や家庭を築くことは容易ではありませんが、楽生院では1959年に「作業療法室」を増設し、患者に園芸、牧畜、裁縫、土木、理髪、調理、楽器演奏、洗濯、ケアなどの指導を行ったほか、患者が作製した作品の販売にも協力しました。
ハンセン病の治療が進歩するにつれ、楽生院の機能、その存在についても議論されるようになりました。1976年、台湾省政府が制定した「台湾省癩病予防治療強化10カ年計画」では、長期目標として25年から30年後に楽生療養院の運営を終え、ハンセン病患者は一般の病院で治療するよう提案しました。1986年にまとまった10カ年計画の継続計画では、ハンセン病の撲滅を目標とはせず、その消滅を確かめることとするよう、重ねて強調されました。このことからは、楽生療養院の主な役割が既に積極的な治療者から、感染状況の監督者に変わったことを意味しており、継続計画の中でも初めて、高齢患者への待遇について言及されたほか、既に入院していない高齢患者についてはチャリティー団体での収容を決めました。その後、台湾省政府は1991年、楽生院を東部・花蓮県玉里、或いは台北県(現・新北市)八里への移転を検討しましたが、地元住民と関連機関の支持を得られませんでした。そのため、翌年、楽生院を改修し「公共衛生センター」とする計画を推し進めようとしましたが、楽生院の所在地は既に台北市政府捷運工程局により新荘車両基地の予定地とされていたため、断念せざるを得ませんでした。この期間、楽生院付近の地域住民は、折衷案として、多くの機能を併せ持つ高層病棟に改築することを提案しました。
台北市政府捷運工程局は1994年6月、交通部に対し、楽生療養院の場所を、新荘車両基地の建設予定地とすることを行政院に報告するよう要請しました。これは、楽生院の国有地を徴用し、まず新たな建物を建て、のちに古い建物を解体するという原則により、楽生院の所在地の西南、新荘区中正路に隣接する土地に病棟と関連施設を建設するというものです。行政院は翌月、MRT新荘線と蘆洲支線の計画を承認し、楽生療養院の場所に新荘車両基地を建設することが決定しました。台湾省政府衛生処は、楽生院の医療機関としてのモデルチェンジ、新荘車両基地の関連工事施工に対応するため、楽生院エリアを、エリア後方に位置する山地の保護区に移築、再建することに同意し、直ちに楽生院の改築計画実施へ向けた調整を始めました。行政院が1999年に審査、決定した楽生院改築工事、新病棟建設計画は元々、院内で暮らす人々の居住と活動のための低層、住宅型の平屋建ての建物となるはずでしたが、入所者減少後の病院の存廃、慢性疾患患者向けの地域医療機関へのモデルチェンジを図るのかなどの問題が未定だったことから、2000年、8階建ての一般病棟と療養病棟を新築することを認めました。こうして、楽生療養院は引き続き入所者の治療、ケアという重責を担うほか、地域医療機関を目指していくという方向性が示されました。
同時に、入所者へのケアについても、過去のような患者への指導や閉鎖的な管理という形から、サポートという形に次第に変わったほか、自治管理が原則となるなど、大きく変貌を遂げました。例えば、楽生院では1990年代には、患者の作業療法に関する管理、入院患者の管理規則と指針などが定められていましたが、2000年代の初めになると、入所者の自治管理委員会によって、入所者の地域復帰を支援する案などについての指針が決められるようになりました。また、2002年には「迴龍外来診察部」が一般の人々にも開放され、それまで限定的だった楽生院の医療サービスに新たな風を吹き込みました。さらに医療サービスとスタッフの拡充が図られ、10以上の診療科が新たに設けられました。こうして、医療機関としてのモデルチェンジへの道を切り開いたほか、高齢となったハンセン病患者の障害や、いくつもの慢性疾患を抱える患者に対するしかるべき医療、ケアを積極的に行われるようになりました。特に2005年4月に8階建ての高層病棟が竣工し、療養病棟で優れた医療サービスが提供されるようになったほか、設備も一新され、診察スペースも改善が図られました。さらに重要なことは、入居者についてレベル別のケア制度が実施されたことです。
2008年以前、入所者へのケアと感染予防、治療はともに行政命令と作業計画によって行われており、法律に基づいた患者の権益の保障などはありませんでした。楽生療養院のモデルチェンジ、MRT新荘車両基地の建設工事によって引き起こされた論議により、楽生療養院は、その他の衛生署所属の病院とは異なる道を進むこととなりました。ハンセン病患者の人権も重視されるようになり、これは「ハンセン病患者人権保障及び補償条例」の立法院(国会)通過につながりました。
2000年に楽生療養院の改築計画が決定した後、社会各方面はMRT新荘車両基地の建設地選定に異議を唱え始めました。2002年にはMRT新荘線の工事が開始されましたが、新荘の住民は「老木救済連盟」を結成し、楽生院内の老木保全というテーマを掲げ、請願活動を始めました。こうした議題は「地方の建設と繁栄が優先」という従来の見方とは大きく異なりました。2001年、日本のハンセン病患者が、日本政府を相手に起こした「らい予防法違憲国家賠償訴訟」で勝訴し、日本政府は控訴を断念するとともに、患者に対して謝罪の談話を発表しました。その直後、補償金の支給に関する法律が国会で可決されました。この一件は、ハンセン病患者の権益に関心を持つ台湾の人たちにとって、患者の人権を勝ち取るための手本となりました。折しも、世界ハンセン病デー制定から50年目となった2004年、当時の陳水扁総統が楽生療養院を訪れ、戦前に入所した人々を戦士と称え、金メダルを贈呈するとともに、政府を代表して、初めてハンセン病患者に謝罪をしました。法曹界や社会運動団体はハンセン病患者の人権保障を勝ち取るための活動を行い、集会やデモにより、楽生療養院の古跡指定と保存、在園保障を訴える意見のほか、台湾のハンセン病患者25人の、東京地裁への補償請求訴訟に協力しました。翌2005年の10月25日、戦前、日本政府によって楽生療養院に入所させられたこうした台湾の患者たちは勝訴し、800万円から1400万円の補償金を手にしました。このニュースが台湾に伝わると、総統府は直ちにニュースリリースを発表し、行政機関に対し、国民政府時代に行われた、ハンセン病患者への誤った措置について、いかにして人権を保障し、社会的弱者を保護できるのかを検討し、ハンセン病患者に対する救済或いは補償の措置を行うよう指示しました。
高層病棟の竣工と同時に、衛生署は山地エリアで暮らしていた入所者の安全を考慮し、その転居をサポートしようとしました。しかし、このことが、楽生療養院側が入所者を脅して強引に、外部と隔離されている高層病棟に入所させようとしたとの誤解を生み、大きな批判を浴びました。当時、台北市政府捷運工程局も反対運動のあおりを受け、一部の工事が遅れていました。当時の行政院文化建設委員会は、改正された「文化資産保存法」を公布、施行後、直ちに楽生院を「暫定古跡」リストの対象とし、古跡指定をめぐる議論は一段落しました。しかし、ハンセン病患者の人権に関する立法と楽生院全エリアの保護についてはなお議論の焦点となり、学術界と市民の陳情、抗議の声は絶えませんでした。行政院は2006年3月、「ハンセン病患者補償条例」の草案を立法院に送り審査した後、当時の台北県政府が提示した、41.6%を保存するという計画を批准しました。その後、社会各方面と話し合いを行った結果、行政院公共工程委員会は2007年5月30日、楽生院の保存計画について決議を行い、55棟の建物のうち、39棟はそのまま保存、10棟は移築し、6棟は解体することを決めました。これに対し、一部の団体はすべてのエリアが保存されない決定に不満を持ち、対立はエスカレートし、特に台北市政府捷運工程局への土地の受け渡しが行われた9月12日には、院内で大規模な衝突が発生しました。さらに、同年年末、「ハンセン病患者補償条例」草案に関する与野党協議が紛糾し、継続の審議は中断することとなりました。
しかし、政府はハンセン病患者に対するケアと、重大な公共事業の継続を両立させていくという原則のもと、各方面との調整、努力を続けました。その結果、「ハンセン病患者補償条例」は2008年7月18日に、立法院で可決され、癩病、痲瘋病などと呼ばれていたものをすべてハンセン病とすることなど、各項目で正しい名称を使うこと、社会教育、啓蒙活動などの取り組みのほか、楽生院の294名の入所者と院外の948名の患者に対して、政府は補償金支給のための予算を編成。患者は2010年12月31日までに7億3062万6662台湾元の補償金を獲得しています。劉兆玄・行政院長(当時)は2009年2月12日、第3131回閣議において、ハンセン病患者に対して謝罪の意を表明し、長期間にわたって、言われのない不当な扱いを受けてきた患者たちをいたわるとともに、その名誉回復を行いました。さらに、楽生院は2008年9月12日、「ハンセン病患者の医療及びケアに関する権益保障作業指針」を立案し、行政院衛生署で批准された後、この作業指針をもとに、楽生療養所のすべての入所者に対し、継続して適切な医療、ケアを提供することとなりました。これは、整った機能を持つ療養エリアと医療センターの設立、衛生署からの数千万台湾元の補助をもとに院内の緑化、美化、ケア施設の修繕などにより、各入所者が尊厳が得られ、ヒューマニティーあふれる整ったケアを受け、温かく十分に尊重される環境において、落ち着いた晩年を過ごすことができるというものです。また、各地で暮らしている患者についても、誠心誠意ケアをしていくとしています。
こうしたハンセン病患者の医療、ケアに関する権益は、いずれも2008年11月27日に衛生署が審査、決定した「行政院衛生署ハンセン病患者人権保障及び推進チーム設置指針」に基づき、3名の政府職員、4名の専門家・学者、ハンセン病患者の代表4名で構成された推進チームにより諮問、アドバイスがなされます。同チームはこれまで会議を13回行っており、ハンセン病患者の生活のための手当額を、月千台湾元まで引き上げることに成功したほか、老人基本保証年金の支給と過去にさかのぼっての支給、新旧エリアを結ぶ陸橋の前倒しでの完成、連絡がつかなくなっている100人近いハンセン病患者と家族に対する補償金申請のサポートなどを行ってきました。
新荘車両基地の用地のうち、今後保存しないエリアの強制執行については、2008年12月3日、民間団体と一部の入所者の抵抗の中で行われました。また、この工事施工については、施設の安全面に対する影響が憂慮されています。しかし、入所者はなお楽生院で暮らしていきたいと考えています。社会各方面が関心を持つ楽生院の文化保存について、2009年8月から9月にかけ、当時の行政院文化建設委員会と台北県政府は、それぞれ「台湾の潜在的な世界遺産」の一つ、同県の「文化景観」と「歴史建築」に登録したことで、楽生院は異なる地位を得るとともに、違う道をたどることとなりました。衛生署も米ハワイのカラウパパ国家歴史公園、日本の国立のハンセン病療養所などへ訪問団を派遣し、参観、交流を行ってきました。また、十分な経費と専門スタッフの獲得を目指した上で、楽生院開設以来80年の、医学におけるヒューマニティーと文化的・歴史的価値を示し、将来的には、ハンセン病人権森林公園と台湾ハンセン病医療資料館に生まれ変わろうとしています。楽生療養院内のハンセン病入所者の住居は、今後も居住空間の品質とプライバシーが確保されます。数十年後には、コミュニティーでのサービスを原則とするハンセン病医療エリアと長期ケアエリアにモデルチェンジしていくことを予定しています。