文化資產局臺灣世界遺產潛力點
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楽生療養院

國家:,Nation:,国家: 台湾
所在地:,City:,郡部: 新北市
方位:,GPS:,位置: N25.1
E121.24
入選時間:,Selected:,選択した時間: 2009
特殊價值:,Special:,特殊な値:
相關影音
所在位置
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  • 歷史沿革
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住所

33351 桃園市亀山区万寿路1段50巷2号(新エリア)

24257 新北市新荘区中正路794号 (旧エリア)

楽生療養院は台湾北部、新北市新荘区と桃園市亀山区迴龍里にまたがるエリアにあります。敷地面積は約30ヘクタールで、2つのエリアに分かれています。楽生療養院(旧エリア)は、MRT新荘線の迴龍駅付近にあり、平屋建ての建物は入所者のためのものです。一方、迴龍(新エリア)は桃園市に位置し、近代的な8階建ての高層病棟2棟からなります。このうち1棟はハンセン病患者の診察、入所者の生活・居住空間として使われています。楽生療養院は、日本統治時代の1930年、「台湾総督府癩病療養楽生院」として設立されました。ハンセン病の患者を強制的に収容するための施設であり、台湾で初となる公立のハンセン病の予防・治療と患者の隔離を行う施設でした。創設当時、住宅はわずか3棟、収容患者は100人ほどでしたが、その後、日本政府が強制隔離政策を行い、戦後台湾を接収した国民政府も、強制隔離政策を継続させたため、院内の療養施設は60棟余り、病床数は1000近くに達しました。

80年余り前に楽生療養院が設立された当初、付近に人はほとんど住んでいませんでした。これは当時、強制隔離こそがハンセン病の最も効果的な治療法であると国際的に考えられていたことが一番の理由です。また、患者が人々の奇異の目にさらされることなく、安心して暮らせるようにしようとするねらいもありました。楽生療養院は、当時の世界的な療養制度によって規則が決められたほか、各施設も病院、療養所、コミュニティーの機能を兼ね備え、患者の衣食住と教育、娯楽のニーズを満たすように設計されました。事務棟、居住空間、生活施設から、下水道、浄水システム、電力設備といったインフラ、さらにグラウンド、ランドリー、協同組合、理容室、食堂、患者の子女を預かる保育所、児童療養所、講堂、図書館、れんが工場、宗教施設なども建てられ、小さなコミュニティーを形成していました。

 

その後、ハンセン病の特効薬が開発されたこと、医療の進歩、情報網の発達により、ハンセン病が謎の病気、脅威とされた時代は終わりを迎えました。楽生院は施設の耐用年数を迎えていること、また発展の著しい大台北都会区(台湾北部の台北市、新北市、基隆市を含む「首都圏」を指す)にある、恵まれた立地条件などから、政府関連部署は未来のあり方について検討するようになりました。閉鎖移転、都市再開発、公共交通機関の整備、医療資源などいくつもの議題がある中で、政府は、MRTの新線建設計画と、楽生院の改築工事を同時に進行する折衷案に決定しました。これは、入所者の療養所とコミュニティーの医療施設を含む高層病棟の新築、新荘線迴龍駅と車両基地の建設というものです。MRT新荘線の建設工事は2002年に開始された後、高層病棟は2005年に竣工、入所者が続々と入居しました。しかし、一部の入所者がその処置について不安を感じたほか、楽生療養院を文化遺産として保存することを求める声も広がりました。そのため、行政院公共工程委員会は、2007年5月30日に関連部署を招集し、「MRT新荘車両基地、楽生療養院保存方案」検討会議を行いました。この中で楽生院療養院エリア(旧エリア)の保存に関する原則を決めました。この原則とは、39棟の建物はそのまま保存し、6棟は解体、9棟は全体整備計画の対象として再建するというものでした。また政府は、心身の痛みを味わったハンセン病の患者を慰め、補償を行うとともに、その治療、ケアに関する権益を保障するため、2008年8月13日、「ハンセン病患者人権保障及び補償条例」を公布、実施しました。

 

2010年12月末時点で、楽生療養院の入所者は225名おり、このうち129名が高層の療養病棟で、37名が平屋建ての施設で、31名が山地エリア(旧エリア)内で暮らしています。楽生療養院は2009年9月7日、新北市政府によって文化景観と歴史建築に登録されたほか、文化部(当時は行政院文化建設委員会)により、「台湾の潜在的な世界遺産」の一つに選ばれました。

台湾でハンセン病はかつて「痲瘋」、「麻風」、「癩病」、「韓森病」などと呼ばれていました。台湾におけるハンセン病の看護記録として最も早いものは、清代、乾隆元年(1736年)までさかのぼります。彰化県令(県知事に相当)の秦士望が建立した養済院の傍らにある留養局の碑には、養済院ではハンセン病の患者と身体障害者を収容したと記されているほか、清の役人、周璽が記した彰化県志にもその旨が記されています。ただ、この記載のみからは、当時、養済院でハンセン病患者を収容したこと、或いは医療行為が行われたことを直接証明することはできません。その後、日本統治時代に入り、台湾では、外国籍の医師と宣教師の指導により、近代的な治療とケアが始められました。20世紀の初め、アジアでもハンセン病の問題が重視されるようになりました。当時、世界各国のハンセン病の主な治療法は「隔離収容」、つまりハンセン病患者を1カ所の辺鄙(へんぴ)な場所に隔離し、外部との接触を禁止することで原因となる細菌の飛散を防ぐというものでした。例えば、フィリピンのクリオン療養所は離島のクリオン島に設置され、世界最大のハンセン病療養所となっています。そのほか、米ハワイのカラウパパ国家歴史公園、日本の国立療養所長島愛生園、韓国の国立小鹿島病院、マレーシアのスンガイブロー療養所など、ハンセン病療養所は現在も世界各地に存在しています。

台湾で、ハンセン病療養所設置を最初に呼びかけたのは、1901年、日本の学者、青木大勇でした。その結果、日本政府は1907年に通過した「癩予防法」に「隔離」という言葉が登場しました。第11代台湾総督、上山満之進は1927年、George Gushue-Taylor医師のアドバイスをもとに、当時の台北、新竹州境の「坡角」(現・迴龍)地域に、33万円を投じ、「台湾総督府癩病療養楽生院」を建設し、1930年に竣工しました。当時人々は「楽生院」と呼んでいました。楽生療養院の前身であるこの楽生院は、台湾初そして唯一の、公立のハンセン病予防・治療施設でした。

楽生院は、当時、世界のハンセン病療養所で行われていた制度をもとにして管理がされました。当時、最も有効的な治療法とされていたのは、治療施設、収容所、コミュニティーの機能を兼ね備えた施設内に隔離するというものでした。また、患者たちが奇異の目にさらされることなく、生を楽しみ、愛おしみ、その生命を尊重することができるようにという願いから「楽生」と名付けられました。楽生院が1930年12月12日に開設された際、患者は男性4名、女性2名のみでしたが、その後、宣伝活動や「台湾総督府癩病療養所楽生院案内」冊子の発行を通じ、台湾の人々へ、楽生院とハンセン病治療についての啓蒙を行いました。さらに各地の病院に通報を義務付けたほか、警察は住所の調査をし、各地方自治体では患者を強制的に隔離、収容する体制を整えさせたことから、楽生院への入院患者は急増し、翌年4月には上限の100名に達しました。また「台湾癩予防協会」と民間団体の協力のもと、5カ年と10カ年計画に基づいて、楽生院の施設と収容人数が拡張された結果、入所者の上限は700名となりました。1944年、当時の台北州八里にあったハンセン病療養所、楽山園の患者を収容したことで、翌年の患者数は442名に達しました。

日本の敗戦後、中華民国が台湾を接収。楽生院は台湾省行政長官公署の所轄となり、「台湾省立楽生療養院」と名を改めました。まずは1945年に台湾人医師の頼尚和が代理院長に就任し、翌年、呉文龍医師が引き継ぎました。しかし、1953年に陳宗エイ院長が就任するまで混乱が続きました。当時の社会には、ハンセン病に対する恐怖心と差別が存在し、勤務を希望する人が少なかった上、国共内戦期間中という時代背景もあり、楽生院の情勢は不安定となり、治安は乱れました。さらに、中国大陸から渡ってきた軍患者を多く収容したことで、台湾のハンセン病患者との間で、エスニック・グループの対立が頻発しました。不十分な管理もあって、患者の脱走も発生し、1947年、患者数は240名まで減りました。ようやく1953年12月に陳宗エイ医師が院長に就任すると、事務の見直し、患者たちの自治を推し進め、生活と環境を改善するだけでなく、社会資源の活用を促し、各界のハンセン病へのイメージと理解の向上を図りました。また、「作業療法」を導入し、患者に対し労働と職業訓練を勧めるとともに、「作業療法室」を設け、調理、各種手工芸、牧畜、園芸などの作業を指導しました。こうした取り組みにより、収容人数は年々増加し、1963年には過去最高となる1074名に達しました。(エイ=栄の旧字体の下の木を金に)

この時代、国際的な流れに順応するため、従来の強制的な収容による隔離措置を改め、新薬による治療を開始したほか、1962年の「癩病予防治療法」改正、1965年の「痲瘋病予防治療10カ年計画」と、1976年の「台湾省癩病予防治療強化10カ年計画」実施に対応しました。楽生院では1952年、当時の中国農村復興聯合委員会(現・行政院農業委員会)が持ち込んだ、世界で新たに採用された特効薬、ジアフェニルスルホン(DDS)を試験的に使用し、ハンセン病の治療において大きな進歩をもたらし、根治の可能性も切り開きました。しかし、数量が少なく、服用の資格を抽選によって決めなければならなかったことから、乱用と買いだめを招きました。また、強烈な副作用は、突然症状を悪化させ、らい菌の数が急増し、短時間で全身に結節が生じ、患者の体調は極めて悪くなることもあったことから、服用を拒否する人々も少なくありませんでした。また、、早期完治を焦るあまり、或いは自暴自棄になり、大量服用して命を落とした患者もいました。

戦後間もない頃の楽生院は、さまざまな事柄が手付かずという状態でしたが、宗教活動については絶え間なく行われ、非常に活発でした。各宗教の集会所或いは教会の支援により、次々に建物が建てられました。1952年、キリスト教の教会が礼拝堂建設のために募金を始めたこと、仏教の慈恵会による仏堂建立計画などはその好例です。

生活サポートの面については、物資が不足していたため、初期は一部の患者は食事や衣料などの費用を自己負担していました。この時代はまだ日本統治時代の隔離措置が引き続き行われていました。患者の強制入院、鉄条網による患者の脱走防止のほか、患者居住エリアと事務エリアは消毒液を満たした溝で区分けがなされていました。新生児が誕生した際には、直ちに父母と隔離され成長するまで児童養護施設で育てられていました。また、日本統治時代の各種法規、「癩予防法」、「癩予防法施行細則」、「癩予防法の台湾における施行細則」などはすべて廃止されましたが、1949年にこれら旧規則を改正した「台湾省痲瘋病予防規則」、1951年に改正した「省立楽生療養院入院患者管理法」はともに、消毒や結紮(けっさつ)の強要など差別的な措置、緊急通報システムの規範があったほか、患者或いは感染の疑いがある人の就職を禁止していました。患者が強制収容となったことで、家族の日常生活に支障が出た場合には、地方自治体がこれらの人をサポートし、収容された患者の医療費と生活費は台湾省政府が負担しました。

楽生院では外来診察を採用していましたが、開放性(伝染性)患者については入院治療を行っていました。楽生療養院は全国唯一の公立のハンセン病療養所であり、また、台湾省衛生処から患者の検査、収容を行うよう求められていたことから、外来患者と収容患者の数は年々増加していきました。楽生院のインフラ設備と患者の生活環境は劣悪でありサポートが必要な状態でしたが、相次ぐ戦争による消耗と政府の財政難の中、楽生院は支援を海外に求めざるを得ませんでした。支援の中でも、特に教会と米国によるものは最も重要でした。ドイツ籍のSister Alma、米国籍のMiss Marjorie Bly、ノルウェー籍のBjarne Gislefoss氏とOlav Bjorgaas氏などは皆、教会を通じて支援を行いました。また、西ドイツ出身のScheel医師、カナダ籍のLillian R. Dickson牧師夫人、Rev. Bob. Harmond牧師、Nelson牧師夫人、Karl L. Rankin駐華米大使、米軍医Lyneo医師夫人などは、人の力と資金により楽生院の改修、設備拡充のサポートを行いました。中でもDickson牧師夫人は最初に楽生院へ物資援助を行い、患者たちから敬愛を受けていました。Dickson牧師夫人の支援は食品、衣料にとどまらず、子供の患者向けの収容所である「慈愛の家」や「安楽の家」、「聖望礼拝堂」(1952年)、「キリスト教箴言作業療法室」(1954年)、男児用宿舎「聖光児童舎」と女児用宿舎「King’s Daughter児童舎」、治癒した患者のための「希望の家」(1958年)、視覚障害者の宿舎「盲人舎」などの施設は、すべてDickson牧師夫人が設立を計画し、募金をもとにして建てられました。その後、1970年代に入ってからは日本からの支援が次第に増えました。世界保健機関(WHO)の犀川一夫博士は、元々愛生園の外科医師でしたが、1957年に台湾へ派遣された後、度々楽生院で勤務しました。台湾南部でもハンセン病患者の治療を行いました。この時期、大阪歯科大学によるハンセン病患者へのボランティア診療もありました。また、笹川良一氏は1968年、電気治療器などの設備の寄付を皮切りに、衛生機関の幹部と医師を各地へ派遣し、ハンセン病の治療を視察、実習させる活動を資金援助しました。1977年にはスタッフを育成する講堂の建設資金として10万ドルを寄付しました。この講堂はのちに「笹川記念館」と名付けられました。

1956年、楽生院は巡回診療チームを組織し、台湾各地でハンセン病患者の巡回診療を開始しました。1959年には台湾省衛生処の協力により「台湾省癩病予防治療委員会」を設立、1962年の「癩病予防治療法」改正、1965年の「痲瘋病予防治療10カ年計画」と1976年の「台湾省癩病予防治療強化10カ年計画」を進めました。また、社会のハンセン病への見方を変えようとする、一連の政策も行われるようになります。1954年には脱走防止用の鉄条網、区分け用の消毒液の入った溝は撤去され、同年11月には、治癒した患者が初めて退院しました。1955年には社会人を対象に、施設参観が許されるようになり、完治した患者と伝染性でない患者の外出、里帰り、社会復帰が奨励されたほか、患者が結婚した場合に強要されていた結紮(けっさつ)など差別的な措置が廃止されました。1956年5月20日に台北県(現・新北市)で行われた地方選挙では、ハンセン病患者が初めて神聖なる一票を投じました。社会復帰や家庭を築くことは容易ではありませんが、楽生院では1959年に「作業療法室」を増設し、患者に園芸、牧畜、裁縫、土木、理髪、調理、楽器演奏、洗濯、ケアなどの指導を行ったほか、患者が作製した作品の販売にも協力しました。

ハンセン病の治療が進歩するにつれ、楽生院の機能、その存在についても議論されるようになりました。1976年、台湾省政府が制定した「台湾省癩病予防治療強化10カ年計画」では、長期目標として25年から30年後に楽生療養院の運営を終え、ハンセン病患者は一般の病院で治療するよう提案しました。1986年にまとまった10カ年計画の継続計画では、ハンセン病の撲滅を目標とはせず、その消滅を確かめることとするよう、重ねて強調されました。このことからは、楽生療養院の主な役割が既に積極的な治療者から、感染状況の監督者に変わったことを意味しており、継続計画の中でも初めて、高齢患者への待遇について言及されたほか、既に入院していない高齢患者についてはチャリティー団体での収容を決めました。その後、台湾省政府は1991年、楽生院を東部・花蓮県玉里、或いは台北県(現・新北市)八里への移転を検討しましたが、地元住民と関連機関の支持を得られませんでした。そのため、翌年、楽生院を改修し「公共衛生センター」とする計画を推し進めようとしましたが、楽生院の所在地は既に台北市政府捷運工程局により新荘車両基地の予定地とされていたため、断念せざるを得ませんでした。この期間、楽生院付近の地域住民は、折衷案として、多くの機能を併せ持つ高層病棟に改築することを提案しました。

台北市政府捷運工程局は1994年6月、交通部に対し、楽生療養院の場所を、新荘車両基地の建設予定地とすることを行政院に報告するよう要請しました。これは、楽生院の国有地を徴用し、まず新たな建物を建て、のちに古い建物を解体するという原則により、楽生院の所在地の西南、新荘区中正路に隣接する土地に病棟と関連施設を建設するというものです。行政院は翌月、MRT新荘線と蘆洲支線の計画を承認し、楽生療養院の場所に新荘車両基地を建設することが決定しました。台湾省政府衛生処は、楽生院の医療機関としてのモデルチェンジ、新荘車両基地の関連工事施工に対応するため、楽生院エリアを、エリア後方に位置する山地の保護区に移築、再建することに同意し、直ちに楽生院の改築計画実施へ向けた調整を始めました。行政院が1999年に審査、決定した楽生院改築工事、新病棟建設計画は元々、院内で暮らす人々の居住と活動のための低層、住宅型の平屋建ての建物となるはずでしたが、入所者減少後の病院の存廃、慢性疾患患者向けの地域医療機関へのモデルチェンジを図るのかなどの問題が未定だったことから、2000年、8階建ての一般病棟と療養病棟を新築することを認めました。こうして、楽生療養院は引き続き入所者の治療、ケアという重責を担うほか、地域医療機関を目指していくという方向性が示されました。

同時に、入所者へのケアについても、過去のような患者への指導や閉鎖的な管理という形から、サポートという形に次第に変わったほか、自治管理が原則となるなど、大きく変貌を遂げました。例えば、楽生院では1990年代には、患者の作業療法に関する管理、入院患者の管理規則と指針などが定められていましたが、2000年代の初めになると、入所者の自治管理委員会によって、入所者の地域復帰を支援する案などについての指針が決められるようになりました。また、2002年には「迴龍外来診察部」が一般の人々にも開放され、それまで限定的だった楽生院の医療サービスに新たな風を吹き込みました。さらに医療サービスとスタッフの拡充が図られ、10以上の診療科が新たに設けられました。こうして、医療機関としてのモデルチェンジへの道を切り開いたほか、高齢となったハンセン病患者の障害や、いくつもの慢性疾患を抱える患者に対するしかるべき医療、ケアを積極的に行われるようになりました。特に2005年4月に8階建ての高層病棟が竣工し、療養病棟で優れた医療サービスが提供されるようになったほか、設備も一新され、診察スペースも改善が図られました。さらに重要なことは、入居者についてレベル別のケア制度が実施されたことです。

2008年以前、入所者へのケアと感染予防、治療はともに行政命令と作業計画によって行われており、法律に基づいた患者の権益の保障などはありませんでした。楽生療養院のモデルチェンジ、MRT新荘車両基地の建設工事によって引き起こされた論議により、楽生療養院は、その他の衛生署所属の病院とは異なる道を進むこととなりました。ハンセン病患者の人権も重視されるようになり、これは「ハンセン病患者人権保障及び補償条例」の立法院(国会)通過につながりました。

2000年に楽生療養院の改築計画が決定した後、社会各方面はMRT新荘車両基地の建設地選定に異議を唱え始めました。2002年にはMRT新荘線の工事が開始されましたが、新荘の住民は「老木救済連盟」を結成し、楽生院内の老木保全というテーマを掲げ、請願活動を始めました。こうした議題は「地方の建設と繁栄が優先」という従来の見方とは大きく異なりました。2001年、日本のハンセン病患者が、日本政府を相手に起こした「らい予防法違憲国家賠償訴訟」で勝訴し、日本政府は控訴を断念するとともに、患者に対して謝罪の談話を発表しました。その直後、補償金の支給に関する法律が国会で可決されました。この一件は、ハンセン病患者の権益に関心を持つ台湾の人たちにとって、患者の人権を勝ち取るための手本となりました。折しも、世界ハンセン病デー制定から50年目となった2004年、当時の陳水扁総統が楽生療養院を訪れ、戦前に入所した人々を戦士と称え、金メダルを贈呈するとともに、政府を代表して、初めてハンセン病患者に謝罪をしました。法曹界や社会運動団体はハンセン病患者の人権保障を勝ち取るための活動を行い、集会やデモにより、楽生療養院の古跡指定と保存、在園保障を訴える意見のほか、台湾のハンセン病患者25人の、東京地裁への補償請求訴訟に協力しました。翌2005年の10月25日、戦前、日本政府によって楽生療養院に入所させられたこうした台湾の患者たちは勝訴し、800万円から1400万円の補償金を手にしました。このニュースが台湾に伝わると、総統府は直ちにニュースリリースを発表し、行政機関に対し、国民政府時代に行われた、ハンセン病患者への誤った措置について、いかにして人権を保障し、社会的弱者を保護できるのかを検討し、ハンセン病患者に対する救済或いは補償の措置を行うよう指示しました。

高層病棟の竣工と同時に、衛生署は山地エリアで暮らしていた入所者の安全を考慮し、その転居をサポートしようとしました。しかし、このことが、楽生療養院側が入所者を脅して強引に、外部と隔離されている高層病棟に入所させようとしたとの誤解を生み、大きな批判を浴びました。当時、台北市政府捷運工程局も反対運動のあおりを受け、一部の工事が遅れていました。当時の行政院文化建設委員会は、改正された「文化資産保存法」を公布、施行後、直ちに楽生院を「暫定古跡」リストの対象とし、古跡指定をめぐる議論は一段落しました。しかし、ハンセン病患者の人権に関する立法と楽生院全エリアの保護についてはなお議論の焦点となり、学術界と市民の陳情、抗議の声は絶えませんでした。行政院は2006年3月、「ハンセン病患者補償条例」の草案を立法院に送り審査した後、当時の台北県政府が提示した、41.6%を保存するという計画を批准しました。その後、社会各方面と話し合いを行った結果、行政院公共工程委員会は2007年5月30日、楽生院の保存計画について決議を行い、55棟の建物のうち、39棟はそのまま保存、10棟は移築し、6棟は解体することを決めました。これに対し、一部の団体はすべてのエリアが保存されない決定に不満を持ち、対立はエスカレートし、特に台北市政府捷運工程局への土地の受け渡しが行われた9月12日には、院内で大規模な衝突が発生しました。さらに、同年年末、「ハンセン病患者補償条例」草案に関する与野党協議が紛糾し、継続の審議は中断することとなりました。

しかし、政府はハンセン病患者に対するケアと、重大な公共事業の継続を両立させていくという原則のもと、各方面との調整、努力を続けました。その結果、「ハンセン病患者補償条例」は2008年7月18日に、立法院で可決され、癩病、痲瘋病などと呼ばれていたものをすべてハンセン病とすることなど、各項目で正しい名称を使うこと、社会教育、啓蒙活動などの取り組みのほか、楽生院の294名の入所者と院外の948名の患者に対して、政府は補償金支給のための予算を編成。患者は2010年12月31日までに7億3062万6662台湾元の補償金を獲得しています。劉兆玄・行政院長(当時)は2009年2月12日、第3131回閣議において、ハンセン病患者に対して謝罪の意を表明し、長期間にわたって、言われのない不当な扱いを受けてきた患者たちをいたわるとともに、その名誉回復を行いました。さらに、楽生院は2008年9月12日、「ハンセン病患者の医療及びケアに関する権益保障作業指針」を立案し、行政院衛生署で批准された後、この作業指針をもとに、楽生療養所のすべての入所者に対し、継続して適切な医療、ケアを提供することとなりました。これは、整った機能を持つ療養エリアと医療センターの設立、衛生署からの数千万台湾元の補助をもとに院内の緑化、美化、ケア施設の修繕などにより、各入所者が尊厳が得られ、ヒューマニティーあふれる整ったケアを受け、温かく十分に尊重される環境において、落ち着いた晩年を過ごすことができるというものです。また、各地で暮らしている患者についても、誠心誠意ケアをしていくとしています。

こうしたハンセン病患者の医療、ケアに関する権益は、いずれも2008年11月27日に衛生署が審査、決定した「行政院衛生署ハンセン病患者人権保障及び推進チーム設置指針」に基づき、3名の政府職員、4名の専門家・学者、ハンセン病患者の代表4名で構成された推進チームにより諮問、アドバイスがなされます。同チームはこれまで会議を13回行っており、ハンセン病患者の生活のための手当額を、月千台湾元まで引き上げることに成功したほか、老人基本保証年金の支給と過去にさかのぼっての支給、新旧エリアを結ぶ陸橋の前倒しでの完成、連絡がつかなくなっている100人近いハンセン病患者と家族に対する補償金申請のサポートなどを行ってきました。

新荘車両基地の用地のうち、今後保存しないエリアの強制執行については、2008年12月3日、民間団体と一部の入所者の抵抗の中で行われました。また、この工事施工については、施設の安全面に対する影響が憂慮されています。しかし、入所者はなお楽生院で暮らしていきたいと考えています。社会各方面が関心を持つ楽生院の文化保存について、2009年8月から9月にかけ、当時の行政院文化建設委員会と台北県政府は、それぞれ「台湾の潜在的な世界遺産」の一つ、同県の「文化景観」と「歴史建築」に登録したことで、楽生院は異なる地位を得るとともに、違う道をたどることとなりました。衛生署も米ハワイのカラウパパ国家歴史公園、日本の国立のハンセン病療養所などへ訪問団を派遣し、参観、交流を行ってきました。また、十分な経費と専門スタッフの獲得を目指した上で、楽生院開設以来80年の、医学におけるヒューマニティーと文化的・歴史的価値を示し、将来的には、ハンセン病人権森林公園と台湾ハンセン病医療資料館に生まれ変わろうとしています。楽生療養院内のハンセン病入所者の住居は、今後も居住空間の品質とプライバシーが確保されます。数十年後には、コミュニティーでのサービスを原則とするハンセン病医療エリアと長期ケアエリアにモデルチェンジしていくことを予定しています。

楽生療養院の建物は日本統治時代と戦後の国民政府時代の建築の特色があり、医療施設と隔離空間という機能を持ち合わせています。衛生設備の計画、強制隔離に即したその配置は非常に特殊で象徴的な意義を持ち、公共衛生、歴史、建築、環境計画、人類学など各分野の学者から、研究対象として強い関心を集めています。院内の治療スペースと生活空間の配置と機能的な建築、社会復帰のための施設は、ハンセン病医療と公衆衛生発展の歴史を体現しており、ハンセン病療養所の隔離という特殊性と、歴史的意義を持っています。また、かつてハンセン病患者が社会的に弱い立場におかれていたことが示されており、世界遺産登録基準第2項に合致しています。

時代の変遷と経済の発展により、楽生療養院周囲の環境、自然景観も次第に変化し、入所者の生活の場も変わり続けています。過去から現代へと時代が移り変わる中、かつての「閉鎖、隔離」は、「開放、抗争」へと変化、楽生院の役割も、ハンセン病患者の強制収容施設から、患者のための療養所と地域医療機関へと変わってきました。これは、楽生院が「不可変と不可逆」の条件下、環境と互いに影響し合いながら、社会の変遷に適応した重要な証拠であり、世界遺産登録基準第5項に合致しています。

楽生療養院の入所者で構成された「楽生保留自助会」と台湾の民間団体が共同主催した楽生療養院の世界遺産登録申請と患者の権益向上を目指す國際ワークショップは、2009年3月7日、2日目を迎えました。この日の議論の焦点は、人類の貴重な文化遺産である世界各地のハンセン病患者の居住地を、我々の世代がいかにしてより良い形で保存し、発揚できるのかという点です。ワークショップでは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)で副会長を務めた東京大学の西村幸夫教授を招き、世界文化遺産登録申請の原則と手続きについて説明を受けました。会場の人々は皆、西村教授の言葉に真剣に耳を傾けました。以下は、西村教授の発言内容をまとめたものです。

国境を越えた世界文化遺産登録申請は、国際文化遺産保存の新たな流れ

西村幸夫教授は、国境を越えた世界文化遺産登録申請は、ユネスコからも歓迎されており、特に近年はその成功例が増えていると述べました。これまでの「競争」に代わり、「協力」するという方法で全人類の文化と記憶を共同で保存しようというのが、21世紀の新たな流れであると説明しました。

ユネスコにおいて世界遺産の現地調査を行った西村教授は、楽生院は、「世界遺産条約履行のための作業指針」の中で示されている登録基準の多くを満たしており、特に第6項の「人権の歴史と唯一関連があるノミネート項目」において、楽生院はこの項目の精神を体現している場所と言えると述べました。西村教授はさらに、南アフリカのロベン島の博物館を例に取り、かつてネルソン・マンデラ元大統領が収監されていたこの島は、暫定リスト入り条件に符合していないものの、人権侵害の歴史の証人として、世界文化遺産に登録されたと説明しました。

西村教授は、イコモス委員としての立場から、南アフリカのロベン島は、政治犯を収容した場所としての歴史が広く知られていますが、同時に強制隔離していたハンセン病患者を収容していたとして、台湾の楽生院と同じ歴史を持っていると指摘。現地調査に参加した委員は、ハンセン病患者の隔離の歴史は、21世紀の文化保存における重要な項目になると話していたことを明らかにしました。

台湾は国連加盟国ではないが、世界文化遺産登録を申請できるか

台湾は過去、国際機関に参加しようとした際に、圧力や妨害を受けてきました。このことが世界文化遺産登録の申請においても繰り返されるかどうか、皆が強い関心を持っています。これに対して、西村教授は、台湾の現在の処遇を考えると、國際機関によって申請を行い、台湾を複数の申請国のうちの一つとすることが、一つの解決策ではないかとの見方を示しました。西村教授は、ハンセン病患者が差別を受け隔離されてきた歴史は普遍的なもので、20世紀の重要な人権問題でもあることから、申請すれば、審査委員は国家の地位の問題を理由に受理を拒否することはないだろうとしました。

楽生院の世界文化遺産登録申請は天の時、地の利、人の和

西村幸夫教授は、楽生院が政府により解体、移転されようとした経験は台湾だけの話ではなく、全世界の多くのハンセン病療養所でも、都市の過度の拡張によって同様の危機に直面したと指摘。また、ユネスコは既にこの現象に注目しており、2009年の登録申請はまさにベストなタイミングと言えるとの考えを示しました。台湾は2009年から、楽生院の歴史と文化についての大型学術シンポジウムを行うことで、國際交流を促進し、国境を越えた世界文化遺産登録申請についての知識、調査・保存のノウハウを学ぶべきだと提言しました。

国連の諮問機関IDEA Internationalが世界遺産登録申請への協力を表明

この日のもう一人の来賓、IDEA Internationalの秘書長、Anwei Law氏は西村教授の発言を受け、ハンセン病療養所の世界文化遺産登録申請は長年の目標であったと述べました。IDEAは、世界のハンセン病療養所、特に地元台湾の楽生院の世界遺産登録申請について協力していきたいと明らかにしました。これを聞いた来場の人々は皆、興奮しましたが、楽生院は政府から重視されているとは言えず、適切な保護もされているとは言えず、こうした中、出席した文化建設委員会と衛生署の職員に対して、政府は、国際社会と力を合わせ、楽生院の世界遺産登録申請を推し進めていくのか否か質問がなされました。

ワークショップに参加したすべての来賓は2009年3月7日午後5時、国際社会に向けた正式な宣言に署名。全世界のハンセン病の患者は皆、しかるべきケアを受ける権利と居住権を享受できること、台湾の楽生院の世界文化遺産登録申請を応援することを宣言しました。同時に中華民国政府に対し、楽生院の入所者の人権を保障すること、国際社会は共同で監督していくことを改めて呼びかけました。

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