馬祖軍事文化景観
一、軍事施設
1、北竿午沙坑道:午沙坑道または午沙北海坑道と呼ばれ、1968年に南竿、東引の北海坑道と同じ時期に掘削が始まりました。長さは数百メートル、幅は10メートル強で、規模としては南竿北海坑道ほど壮観ではありませんが、かつて兵が掘り進めたときには、南竿北海坑道と同じように、つるはしやシャベル、鉄鋤、鉄のもっこといった道具で、堅い花崗岩の壁を人の手で掘り進めたものです。完成までの3年近くの間に、兵士が100人以上犠牲になっており、工事の規模の大きさと過酷さが分かります。午沙坑道は当初、上陸用舟艇の停泊用に計画されたものですが、完成後も使用されないまま、長年放置されていました。坑道を建設中、使用した爆薬で多くの兵士が死傷した事故があり、長年、幽霊が出るとのうわさが伝わっていたため、地元の人が近づかなかったことで、より鬱蒼とした場所になっていました。
馬祖国家風景区管理処が設立されてからは、同処が午沙北海坑道を管理。これにより、坑道内部と近隣の改修が行われ、外部に続く道路と柵も整備されたことで、観光客が、坂里村または午沙村から道路沿いに、歩いて見学できるようになり、戦地の様子を体験できる最適の場所となっています。(参考資料:北竿郷公所)
2、北竿芹山心理戦拡声機ステーション(放送所):国共が対峙している期間、プロパガンダ放送は、両岸(台湾と中国大陸)が相手側を批判し、自分側を宣揚する重要な手段でした。国防部はかつて、金門、馬祖の前線に、プロパガンダ放送を専門に行う拡声機ステーションを計5カ所設置。このうち、北竿芹山に設置された拡声機ステーションは、東南アジア最大規模の拡声機ステーションで、500ワットのスピーカー計48個が大陸に向けて放送していました。1979年9月3日に放送を開始した芹山拡声機ステーションは、馬祖の前線で唯一のプロパガンダ放送施設でした。ここからの放送は、遠く2万9000メートル先まで聞こえるものでした。(馬祖の北竿・高登島から、対岸の中国大陸の北コウ半島の最も近いところまでが9250メートルほど)このため、福建沿海の連江、黄岐一帯では非常にはっきりと聞き取れ、もちろん馬祖列島も放送が聞こえる範囲に入っているため、北竿の橋仔、芹壁といった地域一帯の住民は、放送内容に詳しくなるほど聞き慣れたものです。また、漁船が拡声機ステーションの下を通るときには、耳をつんざくほどの大音量に遭遇することになりました。放送は、国語(いわゆる中国語)と福州語の2種類で行われ、国語は国防部女青年工作大隊が、福州語は北竿の女性教師が協力して録音。内容は、共産主義批判や、中国共産党指導者に対する非難、さらには、三民主義が台湾・澎湖・金門・馬祖の住民に豊かで平穏な生活をもたらした事実を宣伝するものでした。拡声機ステーションの当初の役割は、プロパガンダ放送が中心で、反共義士(中国共産党政権から逃れてきた軍人や民間人)が自由を求めて亡命すれば、台湾側が黄金を支給することを呼びかけ、また、ニュース速報も放送。1989年の天安門事件の際、中国共産党はこの事件について情報を封鎖していましたが、芹山拡声機ステーションでは、絶えずこの情報を放送し続けました。放送は通常、1日に8~9時間で、プロパガンダ以外に、最もよく放送されたのは、テレサ・テンの歌でした。両岸情勢が緩和するにつれ、芹山拡声機ステーションの放送内容から、プロパガンダがなくなり、代わってニュースや天気予報、音楽番組が放送されるようになりました。2003年6月、軍が、拡声機ステーション内に放置されていた設備を台湾本島に運んで廃棄処分することを計画しましたが、その後、北竿住民の意見を反映し、保存することになりました。その設備は、北竿・大沃山の戦争和平記念公園が設立されると、展示用に供出されました。(北竿郷志より)(コウ=くさかんむりに交)
3、戦争和平記念公園:北竿・后沃村後方の大沃山に位置し、総面積38.8ヘクタールの馬祖戦争和平記念公園は、馬祖国家風景区管理処が開発、管理しており、武器と拠点坑道を展示した唯一の戦地公園です。軍が、使用していない大沃山の軍用地を拠出。2004年から設置計画が始まり、戦争和平テーマ館、螺蚌山自然歩道、06拠点展望台、地下坑道などのスポットが続々と建設されました。后沃村の代替道路に沿って大沃山まで歩けば、道の両側に、軍用の大型トラックや機関銃、自走砲、戦車など、使われなくなった武器が、説明看板とともに展示されているのを見ることができます。この公園には、戦地と歴史の景色が凝縮されており、馬祖地域の軍事の歴史や、模擬軍事陣地、冷戦時の東太平洋防衛線に関する展示といった役割を担っています。また、馬祖に多くある戦地の特色と歴史的背景を活用し、観光客に「前線戦地」の雰囲気を体験、実感してもらう場所でもあります。
4、北竿軍用3ダム:北竿地域には、坂里ダムのほかに、中興、午沙、橋仔という軍のダムが3カ所あります。中興ダムは元は長坡ダムといい、壁山の下方に1973年に建設されました。総貯水量は約1万6000トンで、上ダムと下ダムに分かれており、主に軍に水を供給していました。坂里ダムが完成した後は、人為的な汚染や富栄養化がひどくなったため、使用されなくなりました。午沙ダムは、1989年の建設で、午沙港左側の山腹に位置します。集水域は、芹山と壁山の一部で、総貯水量は約1万3000トン。同じく主に軍用の水を供給していましたが、現在は使われていません。橋仔ダムは、1973年の建設で、元は軍が使用していましたが、坂里ダム完成後は、環島北路の遮水システムのライン上に位置していたため、坂里ダムの重要な水源になっていきました。環島北路の内側には排水溝が設けられ、地形が低いところにはポンプ場を設置。雨の季節には、この遮水システムが機能を発揮し、壁山の豊かな雨水を、各ポンプ場から坂里ダムに送り出しています。
5、南竿北海坑道:南竿北海坑道は1968年、馬祖防衛司令部が2個師団、3個歩兵大隊、1個工兵大隊、1個ダンプカー中隊を出して、3チームを編成し、昼夜通して工事にあたり、820日かけて完成させたものです。当時の工事技術は現在のものには遠く及ばなかったため、堅い花崗岩を掘って坑道を作るには、爆薬を使う以外には、人の手でひと掘りひと掘り進めるしかなく、非常に困難なものでした。
6、南竿大漢拠点:大漢拠点は鉄板沙灘(鉄板ビーチ)と北海坑道の間に突き出た岬にあります。ほかの軍事拠点と違うところは、坑道が3層構造となっていることで、地下1層目のメーン坑道は長さ約304メートル、幅約1.5メートル、高さ約2メートル。長く狭い曲がりくねった岩穴を進めば、観光客は、困難をものともしない歴史の歳月を感じることができるでしょう。使われなくなった大小さまざまな機関銃の銃口は、カメラのファインダーのようにも見え、奥深く暗いところを通ってきた後には、新たな世界が広がるようにも感じられます。
7、南竿仁愛鉄堡:仁愛鉄堡(鉄のトーチカ)は、仁愛村西側の津沙集落へ続く浜海道路下方にあり、元は海に突き出た独立した岩礁でした。かつて、軍が戦略上の必要から、岩礁の中をくりぬいて空洞にし、上からセメントで覆って、ここを拠点として設置、荒波の中、毅然と立ちはだかっています。周りの岩礁にガラス片が多数埋め込まれているのは、中国大陸側から闇夜に紛れて渡ってくる偵察部隊を阻止するためでした。使われなくなって久しいものの、拠点内部には、地下石室や坑道、砲口、砲台、厨房、トイレ、部屋、寝室といった防御施設や生活施設がきれいに保存されており、小さいながらも必要なものは完備されています。
8、西キョ山海一家(東海部隊):1950年6月、北朝鮮はソ連支援の下、韓国への侵攻を開始しました。米国のトルーマン大統領は、事態を重く見て、ソ連のもくろみを見極め、北朝鮮の進撃阻止を決意。国連は6月下旬、北朝鮮を武力により撃退するべきとの米国による勧告の採択を決議、同月末、米軍が参戦します。中国共産党は以前から北朝鮮と「軍事同盟」を結んでおり、また、ソ連も、まずは北朝鮮の戦争を支援してから、台湾問題を解決することを承諾していたため、中国共産党は同年10月、「抗美援朝(米国に対抗し、朝鮮を支援する)」という名分のもと志願兵を投入。一時的に台湾への侵攻は脇に置かれました。米国は当時、中央情報局(CIA)が置いたダミー会社である西方公司と軍の顧問団が台湾にオフィスを設置しており、中華民国(台湾)国防部大陸工作処が西方公司と顧問団との連携を担当、中国大陸の情報を収集して、国連軍に提供し、西方公司がゲリラ隊に武器・装備を提供していました。東海部隊史によると、西方公司は顧問を十数人派遣、首席顧問が率いて西キョ島に駐在していました。馬祖列島を守備していた東海部隊は、西キョ島・青帆に家屋を建て、西方公司スタッフのオフィスと宿泊所としました。ここは現在、「山海一家」という名称になっています。当時、この建物には水、電気が通っており、浴室も完備。水は裏山から引いたもので、電気は西方公司が自ら運んできた発電機を稼働させていました。交通面では、飛行艇と快速艇で、台湾本島と西キョの間を頻繁に行き来しました。朝鮮戦争の収束とともに、西方公司の西キョ駐在も終わりを告げます。1954年の米華相互防衛条約の発効後、米軍顧問団の馬祖駐在が始まり、顧問対象は、防衛司令部の列島での作戦訓練や、後方支援の事務などにわたっていました。顧問団は、列島の各軍事施設や作業について、効率的な改善策と全体的な防衛情勢についての提案を行うほか、台北の米国軍事援華団陸軍組に、馬祖の軍隊の戦備状況を定期的に報告していました。顧問団が馬祖に駐在していた間、台湾にいた顧問団団長や組長は、頻繁に馬祖の視察に訪れました。顧問団は支援を行っていた時期、軍事的な協力だけでなく、馬祖中学での野球チーム立ち上げを指導したり、軍人や住民向けに西洋映画の無料上映を行ったり、瓊斯登球場の建設にも協力。米軍は馬祖に駐在した10年余り、この土地とともに困難な日々を歩んできました。米軍兵たちは当初、コーラを飲んで、ビーフジャーキーやガムを食べ、町での粋な姿が、地元住民に深い印象を残しました。資料としての歴史は味気ないもので、昔の土地は荒れ果てていますが、その場面の記憶を手繰り寄せると、価値のあるものになります。キョ光郷公所は以前、「山海一家」を東海部隊と西方公司の歴史館にしようと積極的に動きましたが、地主との意見が合わず、調整中となっています。米軍顧問団の跡地は以前、馬祖電力公司が餐飲山荘として経営していましたが、現在は防衛区として返還されています。この2カ所が、キョ光郷公所または鉄板社区協会などにより、再び以前のような姿を取り戻し、地方史と観光の資産になることが望まれます。(馬報社論2005‐5‐18より)
二、軍事記念碑、戦地スローガン
1、北竿殉職兵慰霊塔:馬祖はかつて、台湾の重要な軍事拠点でした。このため、政府は、馬祖への出入りを厳しく規制し、兵役に就いている者、または軍関係者しか馬祖へ立ち入ることができず、馬祖の住人も簡単には台湾本島へ渡航できませんでした。こうした背景から当時、馬祖の兵が殉職した際にも、彼らの家族が当地に来ることができなかったため、軍が、殉職した兵を慰霊するための塔を建てました。殉職兵慰霊塔は1959年、馬祖北竿島の公園・碧園内に設置され、司令官だった田樹樟将軍の字で、右に「忠烈永昭」、左に「浩気長存」と刻まれています。慰霊塔には、亡くなった兵士の名前と年齢、階級、殉職した日付を記し、命を懸けて国を守った兵士たちを祀っています。1969年、北竿の指揮官は、兵士の士気を高めるため、碧園を改修し、憩いの場所にしました。以前からある殉職兵慰霊塔のほか、あずまやや小さな橋があります。あずまやの静心亭、明志亭には、「生の意義は事業創造にあり、死の価値は国家への奉仕にあり」と書かれています。3本の小さな橋は、滌塵橋、慕真橋、正気橋と名前が付けられています。かつての前線の地では、現在でも当時の軍事命令や軍事規律の厳しさが感じられます。
2、黄花崗の役・連江県十烈士記念碑:1911年に広州で起きた反清武装蜂起「黄花崗の役」は、確認できているだけで犠牲者が72人、このうち、連江県の者が10人含まれていました。地域の長老が、その身を捨てて義を取った行動を称えるため記念碑を建てました。
3、戦地スローガン:馬祖の戦地スローガンは、軍と住民の知恵と精神が注がれたもので、命を懸けて国を守った軍人の涙なくしては語れない過去が刻まれています。馬祖に今日のような難攻不落の強固なとりでと、繁栄し進歩した社会を築き上げた、馬祖島の心の糧といえるものです。こういった独特の精神文化が保存・記録され、この土地を踏んだ友たちに、共通の歴史の記憶を残しています。