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卑南遺跡及び都蘭山

國家:,Nation:,国家: 台湾
所在地:,City:,郡部: 台東県
方位:,GPS:,位置: N22.14~22.33
E120.43~121.56
入選時間:,Selected:,選択した時間: 2003
特殊價值:,Special:,特殊な値:
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卑南遺跡は台東市南王里にあり、台東市の中心地から西北方向へ約5~6㎞の距離です。卑南山の東南端に位置する山麓、すなわち卑南渓の河岸段丘(かがんだんきゅう)上に位置します。東北方向に都蘭山を望み、広い面積を占めます。

対象地域:卑南遺跡は現在のところ台湾最大の先史時代の遺跡です。総面積は約80ヘクタール、そのうち重要部分は少なくとも20~30ヘクタールです。緩衝地域は卑南渓、卑南山及び卑南文化人にとっての聖なる山「都蘭山」を含みます。

花東縦谷は大きな一つの断層です。花東縦谷の西側はユーラシアプレートに属し、中央山脈が高くそびえ立ちます。東側はフィリピン海プレートに属し、その地質はユーラシアプレートと全く異なり、主に海底火山やサンゴ礁、海底に沈殿した堆積物によって構成されています。海岸山脈の南端には、海岸山脈を構成する地層の一つ、卑南山礫岩(れきがん)と利吉泥岩(利吉層とも呼ばれる)があり、卑南渓を隔てて向かい合っています。地質上、この2つの地層はいずれも、台湾でプレート構造運動が行われたことの証拠となっています。

 

卑南山は海抜411メートルの山で、その上にはむき出しになった露頭岩が多く見られますが、これはいずれも卑南礫岩です。2つのプレートが衝突したとき、中央山脈が急速に押し上げられたために、高い山から流れ下りる渓流の勢いが増しました。渓流による大地の侵食、土砂の運搬、そして急速な堆積に加え、地殻の隆起によって卑南山台地が形成されました。利吉泥岩は、2つのプレートが沈み込む前弧海盆(fore-arc basin)の深海堆積物です。プレートの衝突によって大陸斜面(continental slope)の物質が崩壊し、形成されたオリストストローム(さまざまな大きさの小岩体や礫が泥質基質に含まれた地質体)です。このため利吉泥岩には様々な外来の岩の塊が含まれています。卑南山礫岩と利吉泥岩はいずれも花東縦谷を構成する地形に属します。その岩層の特性によって生まれた特殊な悪地地形は、花東縦谷国家風景区における重要な地理景観資源となっています。

 

卑南文化人は山と水の近くに集落を築きました。つまり、卑南山を背に、前方に卑南渓を望む場所です。集落の南側には、水草が豊富に生い茂る「台東沖積三角洲平原(三角州を持つ沖積平野)」が広がっています。卑南文化人の埋葬エリアにある1500基あまりの石棺は、その長辺がいずれも北から北北東-南南西から南の方角を向いています。この「帯状配置」の特徴と、地上の建築物の配置を見ると、卑南文化人の集落において家屋の門はおそらく東南東、すなわち卑南渓が太平洋へと流れ込む方向を向いていた可能性があります。

 

卑南渓は現在の台東県池上郷から花東縦谷に沿って南へ流れ下ります。その途中、中央山脈の東側の各支流と合流します。現在の台東県鹿野郷や台東県卑南郷嘉豊村のあたりで鹿野渓と合流すると、川の水かさと、大地の浸食が大きく増えます。川の東側にある利吉層は比較的やわらかいため、川の水は絶えず東に向かって浸食し、それによりダイナミックな景観の「利吉悪地」が形成されました。卑南文化人の集落から北を望むと、海岸山脈を構成する「新港山」以南としては最高峰の「都蘭山」が見えます。海底火山の爆発で飛び出した火山砕屑物が固まってできた火山集塊岩で、硬い素材でできています。山頂には原生の広葉樹林が広がり、自然環境は良好で、サファイアの産地としても知られています。

 

卑南文化公園は草木を植えるに当たり、四季の変化を感じられ、鳥や蝶を呼びやすい特性のある原生植物を修景植物に選びました。このため四季を通して鳥や蝶が飛び交う様子が見られます。特に鳥類が多く集まるのが、この公園の大きな特徴の一つです。けたたましく鳴くタイワンオナガ、美しい鳴き声に端正な姿をしたメジロ、いたずら好きな台湾固有種のクロガシラ、オオカンムリワシ、コウライキジ、アマサギ、タイワンヒバリ、色鮮やかな羽を持つゴシキチョウなどが、いずれも公園に生息しています。毎年やってきて繁殖活動を行う鳥類としては、希少種の留鳥、ズグロミゾゴイがいて驚かされます。

 

9月になって大量のアカモズがやってくると、越冬する渡り鳥たちの到来の幕開けです。空を見上げると、おそらくアカハラダカやサシバが南下してくる情景が目に映るでしょう。鳥類だけではありません。タイワンザルがたまに、シャカトウ(バンレイシ)を求めて近隣の果樹園に侵入することもあります。そこに生息する動物や、エサを求めてやってくる動物の状況から、この公園の生態環境が動物たちに受け入れられていることが分かります。

 

卑南文化公園は、遺跡の発掘現場をそのまま展示する、台湾初の遺跡公園です。計画の初期段階で、李瑞宗教授に委託して、卑南山付近に自生する植物の調査と研究をしてもらいました。この研究の主な目的は、適切な台湾の原生植物を選択し、できる限り遺跡の植物景観を復元することにありました。先史時代の集落を取り巻く自然生態を作り上げることで、当時の卑南文化の植物景観を再現しようとしたのです。

 

このほか、オーストロネシア系諸族が常用する植物を植え、この遺跡公園を民族植物学の野外展示場にしたいとも考えました。前述の構想からもわかるように、卑南文化公園の植物栽培は、原生、遺跡、民族文化などの結合を前提に取捨選択を行っています。現在、この公園では至るところに、海抜の低い場所に生息する台湾の原生植物を見ることができます。ここにはシダ植物、裸子植物、双子葉植物、単子葉植物など合計62科139種が植えられています。これらの原生植物は、公園のさまざまな企画段階において、徐々に遺跡のある土地に植えられたもので、台湾本土の植物の多様性を表現するものとなっています。

卑南遺跡に関する最も古い記録は、日本統治時代初期に台湾を訪れた日本の人類学者、鳥居龍蔵が残したものです。鳥居は4回にわたり台湾を訪れて人類学調査を行う中で、卑南遺跡の地表石柱を写真2枚に収めました。おそらく1896年のことと考えられています。また、卑南遺跡を考古遺跡とみなし、初めて研究対象としたのは鹿野忠雄です。鹿野は1930年に発表した論文の中で、無数の板岩石柱が地表に突き出ていると説明しました。鹿野は、近隣に住む卑南族(プユマ族、台湾先住民族の一つ)の伝説から、かつてこの場所に古代の集落があり、石柱はその住居に使われていたものだと推測しました。日本統治時代の50年間、学者たちの関心はもっぱら地表の石柱に向けられていました。1945年に金関丈夫と国分直一が初めて、そのうち最大の石柱周辺を掘ってみたところ、住居跡と土器が出てきました。

 

第二次世界大戦後、少なからぬ台湾の学者が卑南遺跡を訪れて調査を行いましたが、発掘調査は行われませんでした。1975年、台東県が卑南遺跡を地方遺跡に指定。1979年には台湾地区三級遺跡に格上げしました。しかし、これによって遺跡の保護が徹底されることはありませんでした。1980年に在来線「南迴線」卑南新駅(現在の台東駅)の建設工事が始まると、数千年の眠りから覚めた遺構や遺物が地下から大量に出土し、かつ深刻な破壊を受けることになったため、世論や各界の関心が高まりました。台東県は台湾大学考古人類学科の宋文薫教授、連照美教授に委託し、遺跡の保護を開始しました。遺跡の保護作業は13回、9年にわたって行われ、大きな成果をあげました。発掘の面積、出土した石棺や遺物の数量のどれもが、台湾考古学史を塗り替える大規模なものとなりました。特に、精巧で美しい玉装飾品が大量に、時代を超えて姿を現したことに人々は驚嘆しました。卑南遺跡が台湾を代表する先史時代の遺跡の一つであることは、疑う余地もありませんでした。

 

現在、卑南遺跡は国定史跡に指定されているだけでなく、卑南文化公園が設置され、台湾では初めての考古遺跡公園となっています。

出土した石板棺、玉器、大規模な集落遺跡は、台湾では最大規模のものです。世界各国を見てもあまり例がありません。学術的意義から見ても、先史文化を代表する卑南遺跡は、台湾西海岸で見つかった若干の先史文化遺跡と相通じるところがあるだけでなく、現存するオーストロネシア系諸族の文化とも関連するところがあります。台湾先史文化の全体的な発展の文脈から見ても重要な一角を占めるものであり、世界遺産登録基準第3項に合致します。

また、総体価値が及ぶ範囲が非常に広く、有形の遺構、出土品、標本もあれば、無形の文化遺産もあります。いずれも極めて高い総体価値と重要性を持つもので、世界遺産登録基準第6項に合致します。

卑南遺跡のここ10年間の発掘

1993年における遺跡の層位

国立台湾史前文化博物館の建設準備期間、公園施設の建設が遺跡に影響を及ぼさないかどうかを理解するため、公園建設予定敷地内で試験的に発掘作業を行いました。卑南遺跡の80%以上の用地は個人の所有地だったため、1993年には地元農家が遺跡のある私有地で土地を掘り起こし、その結果、石板棺や遺物が出土するということが発生し、内政部が国立台湾史前文化博物館に善後処理を依頼しました。

 

1996年、国立台湾史前文化博物館は台東県から、卑南公園そばの、すでに政府が収用している道路用地を借り、屋根を組み立てて考古学的発掘を行い、そこに出土品を展示して一般公開しました。観光客に発掘作業の手順を知ってもらうとともに、遺跡に親しみ、出土した建築物の構造や現象について理解してもらうことができました。

 

卑南遺跡の新発見

出土品の放射性炭素年代測定を行った結果、この遺跡はいまから5,000~2,000年前に存在した3つの文化層によって構成されることが分かりました。この場所に人類が住んでいた時期は長く、新石器時代から鉄器時代に至ることも判明しました。

卑南遺跡の出土品は、いまから5,000~3,500年前の縄文土器時代と、いまから3,500~2,000年前の卑南文化のものに分けることができますが、いずれも新石器時代の文化に属します。国立台湾史前文化博物館の研究員は近年、卑南遺跡の最も後期の文化段階においては、石器はあまり見られず、土器のスタイルも変化し、埋葬も石板棺葬から棺を使わない埋葬へとスタイルを変えていることを発見しました。また、この時期の出土品には鉄器もあり、すでに鉄器時代へと突入していたことが分かりました。年代はいまからおよそ1,700年前のことです。この文化層はおそらく、現在台湾に住む先住民族の祖先と文化的なつながりがあると考えられています。

卑南遺跡の石板棺

卑南遺跡には大規模な石板棺群があり、合計1,600基を超える石板棺が発掘されています。石棺は、板岩の石板を組み合わせて作ったもので、ほとんどが東北―西南の方向に並べられ、埋葬者は都蘭山を向いています。大人や子ども、そして乳児までもが石棺に入れられて埋葬されています。

石板棺は、当時の人々の埋葬習慣や価値観を示しています。棺の中からは大量の副葬品が出土していますが、すべての石棺に副葬品があるわけではありません。副葬品は日常の生活用品で、最もよく見られるのが台湾産の玉(ぎょく)で作られた装飾品です。生前、裕福だった人の棺には、副葬品として大量の玉器や土器が入っています。卑南遺跡の精緻な出土品は、大多数が石板棺に入っていたものです。このため石板棺は最も重要な遺物であり、なおかつ重要な現象でもあります。

卑南遺跡から出土した玉器

人獣型耳飾り

卑南遺跡から出土した玉器は、大部分が石板棺に納められていた副葬品です。内容は主に、装飾品と、道具が進化した祭祀用の礼器に分けることができます。装飾品としては、髪飾り、耳飾り、首(胸)飾り、腕飾りなどがあり、そのうち耳飾りが最も多く見られます。耳飾りは、輪の一か所が欠けたようになっている形状のものが中心で、ほかにも変化形があります。人間2人の頭に動物が載っているデザインの人獣型耳飾りは最も特色があり、国立台湾史前文化博物館のロゴマークとなっています。

工具類としては矛、矢じり、斧、鋤、釿(ちょうな)、鑿(のみ)などがあります。外形は日用工具と同様ですが、台湾の玉(ぎょく)で作られる工具類はたいてい鋭利なものが多いことから、これらは祭祀用の礼器として専門的に作られたもので、実用品ではなかったと考えられています。

卑南遺跡から出土した土器

片把手付き壺形土器

卑南遺跡から出土された土器は文化層によって異なり、新石器時代のものと鉄器時代のものに分けることができます。新石器時代の土器はまた、前期の縄文土器と、後期の卑南土器に分けられます。縄文土器の発掘量は多くなく、最も完全な形で残されているものとしては大ホン坑文化(台湾北部、新石器時代に栄えた文化)の円底壺形土器2点があります。紋様のない土器で、完全な形を維持しているものは大部分が石板棺の中にあった副葬品で、両把手付き円底壺形土器がその典型です。(ホン=分の下に土)

鉄器時代の土器は形状がバリエーションに富んでいて、腹部がずん胴や円球形になり、高台(こうだい)が縮小し、把手(とって)が三角の板状に変化し、表面には多くの文様が押印され、その組み合わせで様々な主題を成し、また表面には明らかに赤い色が施されるようになりました。

卑南遺跡の遺構

砌石圈

卑南遺跡は大規模な集落遺跡です。このため、この遺跡から多くの建築物の遺留品を見ることができます。

出土した建築構造は、卑南遺跡の後期―つまり卑南文化三和類型に属するもので、いまから2,000~1,700年前のものです。建築構造から推測すると、当時の一般的な家屋はやや長方形をしており、同じ方向に列を成し、方角としては長方形の長辺が北方やや東寄りを指し、短辺は都蘭山に向いていました。どの家屋も面積は大きくなく、地面を掘り下げて半地下の空間を作った竪穴式住居で、室内には板岩の石片を敷き詰めていました。家屋の外にある歩道は、家屋よりやや高いところにあり、排水溝が設けられていました。家屋の横にはまた、竪穴式の貯蔵庫もありました。大きくて重たい石の階段も、家屋に備えられた基本設備の一つでした。

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